庵野秀明氏の妄想・私小説にハマっていたチルドレンも十数年経過して大嫌いな現実と折り合いつけて生きていくしなかった。就職したり転職したり、日々を摩耗して生活してたわけですね。そこに飛び出した劇場版『ヱヴァンゲリヲン』。
あの消化不良で終わった…冷水をぶっ掛けられた…旧エヴァの続編だと…?かつてチルドレンだった大人は胸の高鳴りを抑えることができませんでした。「あれで終わりじゃなかったんだ!」と。あの頃の青春が再起動しました!
劇場版『ヱヴァンゲリヲン』
違う物語だった「破」
劇場版『ヱヴァ』の「序」は「リビルド(再構築)」と表記されていた(以降はまったく使われていない)。これはリメイクなんだと少年時代の燃えたぎて萌えたぎった感情が蘇る作品だった。
そして「序、破、急、?」とアナウンスされ、こじらせたエヴァチルドレンのハートを再点火させたのである。特に「破」のインパクトはセカンドインパクト以上の衝撃を与えたのである。文字通り旧エヴァを破壊したのです。
真希波・マリ・イラストリアスだとぉ…?
巨乳メガネっ娘とか誰やんね!というか「リビルド(再構築)」じゃない。まったく違う別の物語じゃねーか!と度肝を抜かせたのが「破」である。
『ヱヴァ:序』は旧作を今の技術で再構築しただけともいえる。殆ど同じ物語をやってたわけです。しかし、「破」は旧エヴァの破壊といえるぐらいまったく違う物語となっていた。
ヱヴァ:序 | 旧エヴァの1~6話と同じエピソードを今の技術で再構築 |
ヱヴァ:破 | 旧エヴァには出なかったキャラや使徒が登場して全然違う物語へ… |
な に こ れ ?
序では「リビルド(再構築)」と謳ってたものが「破」では旧エヴァとまるで違うストーリー展開になったのである。旧作をとってつけて成仏してないおっさん専用の映画では断じて違う。もっと恐ろしい片鱗を味わったぜ!
『ヱヴァ:破』は途中から僕らが知ってる旧エヴァとまったく違う物語となったのだ。新キャラもいれば旧キャラの設定も違ってる。これは何なんだ!?
新展開で突き進む物語
パラレルワールドとか平行世界とかそういったものなのだろうか。議論が耐えない。旧エヴァの再構築と公式にも謳われてたヱヴァシリーズはまるで違う物語を紡ぎ出すのである。
この辺のアレコレにも決着つけたのが『シン・ヱヴァ』です。
終盤のカヲルくんの話から、どうやらこの世界は何度も何度も何度もやり直してリ輪廻転生的な物語だった模様。無限に繰り返されたてエヴァ物語だったのです。
カヲルくんは何度やり直したのか知らんが、どんだけ新しいカヲルくんとして生きたか想像できんが、繰り返してた記憶があったのもより「アヴァヴァヴァ」となる(旧エヴァでもヱヴァでに首チョンパ)。
エンタメに振り切ってた
あくまで個人の意見であるが劇場版『ヱヴァ』はエンタメ性に振り切っていた。それは「序」「破」だけでなく「Q」も通してね。
エヴァは庵野秀明氏の妄想と私小説なんですよ。劇場版『ヱヴァ』はその部分を置いてきて、さまよえるエヴァおじさん(25年前にチルドレンだったものども)がカタルシスを得る部分を徹底していた。
エヴァって物語としては最高なんだけど、庵野秀明氏が自己投影してボクの考えるセカイを散らかしたて部分が無かったとも言える。エンタメ作品として突き詰めたわけです。
がしかし!庵野秀明氏は最後の最後で『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でヱヴァシリーズで封印してた己のアレコレを開放したのだ。
カヲルは父さんだった?
同時に「カヲル=碇ゲンドウ」というメタファー視点を何度もぶっこみまくるのが『シン・ヱヴァ』のキモでもある(と思う)。
お前…息子にシンジくんに…止めてもらいたかったのか。ぶち殺して欲しかったのか。首チョンパしてほしかったのか。
エヴァヤオイ女子を全殺するぐらいの「カヲル=父ゲンドウ」という描写は背筋が凍ったね。ゲンドウの若かりし時代の随所に挟まる他人を寄せ付けぬATフィールドって観点でも息子シンジと同じ陰キャっぷりに納得もできた。
セカイ系の描写(真相真理とも言うべき部分の過去振り返り)は、途中からカヲルとして描かれてもゲンドウとしても描かれ初観殺しのようにもなってた。加地さんが部下のカヲルって絵面は最初は「ファッ!?」であったがゲンドウやろねぇ。
カヲル「僕は君だ。僕も君と同じだ。だから幸せにしたっかった」
シンジ「カヲル君は父さんに似てた。だから同じエヴァ(13号)に乗ってたんだね。カヲルくん、君の13号を処分するよ」
(うろ覚えだが処分を受け入れたカヲルくんとのやり取り)
初号機とほぼ瓜二つの合わせ鏡のような最後のエヴァであり使徒である親父ゲンドウ兼カヲルくんの13号機との決戦は全てのシリーズを通して迎えるラスボスに相応しかった。
カヲルくんの「すまない。僕は君の幸せを誤解していた」に収束される。さらば親父ゲンドウ!さらばカヲルくん!ラスボスを倒した果てのシンジくんの(その後に綾波レイがいたが)到達点に巨大感情がスパークした。
親父を止めたい物語だったと言えるし、息子に止めてもらいたかった物語でもあった。ゲンドウは…カヲルくんは…何度やり直したんでしょうか。最後の最後に終われてよかったなぁと思ったぐらいです。
ゲンドウの内面を掘り下げたのも『シン・エヴァ』のポイントでしょう。
劇場版『ヱヴァ』というエンタメに振り切った作品
彷徨い続けたエヴァっ子(チルドレン)の解釈ともいえる作品で僕らにシンクロさせるキャラはシンジくんではなかった。ゲンドウだった。
そもそも劇場版『ヱヴァ』はエンタメ要素に振り切ってた。旧エヴァで顕著だった庵野秀明氏の妄想・私小説という部分が削ぎ落とされたの「劇場版ヱヴァシリーズ」だったと断言できる。万人に受ける物語であるが、どこか寂しさも覚えた。
売れ線に行くのかと。そんな庵野秀明氏の妄想・私小説にハマっていた「ぼくたち」「わたしたち」とは違うベクトルへ向けた作品と思ってたわけ。なのに、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は旧来のヤベーファンを拾ってくれた。
なんたって「ヱヴァ」でなく「エヴァ」って表記ですからね。
エンタメとして面白いし文句なしの「ヱヴァ」から、庵野秀明氏の妄想・私小説に取り憑かれた「エヴァ」ファンを救済する物語だったのが『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』です。かなり私小説部分を出しててかつ、それが面白かった。
(まだ続くんじゃぞ!)
コメント
アスカァァァァー!!!
日本じゃあ二番目だ……
レイは母の投影(面影、亡霊、代理でも良い)。
アスカはいわゆる「初恋の人」。
マリだけが「過去を重ねない人」だから、
未来を生きる上で、マリという選択肢はく自然だと思う。
旧劇の時は宮村優子=アスカが好きだった庵野監督が
新劇との間で、宮村優子を諦めて、安野モヨコ=マリに出会た
着地点は同じに見えて
全く違うと思うけどな
現実でも夢でも一生懸命生きろ、ってことじゃないすかね
それこそ某どっかのハゲ監督が害悪な彼らに昔から変わらず口酸っぱく言ってるのと同じ
アスカ派なら同人の「RE-TAKE」はいいぞ
拳銃撃ったブス女と結ばれて
皆ズッコケてほしかった
気持ち悪い。
アスカ派ならエヴァンゲリオンANIMAでいいのでは?
マリはどう考えてもモヨコ氏の投影でしょーからそれ以外のヒロインと結ばれないのはアニメヒロインとは結ばれることはないんですよと言ってる感じがした
カヲルと加地のシーンは14年の空白の間にカヲルがネルフ司令やってた説があるみたいですね
やっとシンエヴァ見られました。
ケンケンて、加地さん風という意見もあるけど、ふしぎの海のナディアのジャンの成長した姿という意見もあって、ちょっと納得したりもしています。
アスカはナディアに似ているしね。
シンジ=自分だと思うと嫌かもしれないけれど、アスカの幸せを考えるとジャンの方が良いかなと。
ケンスケとトウジが出てきた時めちゃくちゃ嬉しかったのに、ケンケンとアスカの色々想像させられる関係を見ておいまさかと思って、アスカの「大人になっちゃった」でおいおいと思わなければラスト耐えられなかったかも
トウジと委員長が結ばれたのはめでたい
一応は完結したしエヴァ全ての終わりとしてはアリだとは思うけど、新劇シリーズとしてはラストをメタ展開にしてしまったので第三村で苦しくとも生きていくというあの件が全部台無し、ヴィレが必死に戦ったのもあの世界を護るためだったのにシンジ君が全て書き換えてしまったとしたら…
また、旧劇のようなセカンドインパクトや使徒の説明もなく、セカンド~フォースが世界や魂の浄化のためというが何のための誰のための浄化か一切説明なし(リリスとの契約がこれに相当するんだろうけどリリスと意思疎通図れるのか謎)、神殺しもメタ的に全てのエヴァを消す感じだったけど謎のまま(ゲンドウは旧劇のサードが完遂した場合の世界になった後に自分が行うというが…)とにかく何となく謎が解けた感を出してるけど、その実ほとんど前提すら明かされず、謎はただ物語を盛り上げるだけの舞台装置でしかなかったのかなと、謎を煽っておいてさすがにこれでおしまいは余にあまりなので、庵野監督以外の有志によって空白の14年や諸々の設定の回収をアニメとしてまともな形でもう何作か作って欲しいところです。
庵野監督は間違いなく天才だとおもいます
もうそれは何十年と付き合ってきた私たちが
それを見せてもらいましたから。感謝しかありません
未完とかほったらかしが多い世の中でエヴァは完結しました
まがりなりにも。どれほどの苦悩があったでしょうか
なんとなく気持ちは伝わります。それでもエヴァンゲリオンは
ほんとうに苦悩の一作だったとおもいます。みんなに吉あれ
庵野監督も旧作の劇場版の件でかなり現実のオタクにまぢのがちで
総攻撃されたらしく病気にもなってるらしいです。「一度、僕は完全に壊れました」
まぁむべなくしてそうなるんかなと考えちゃいます
なんか作品作りってほんと
心身を削らないと出来上がらないしいいものは絶対できないんだとおもいますが、それでも宮崎駿ら巨匠は庵野監督らの人間性や実力を
高く買ってるし。それで面白くないとかつまんないとかいう連中も
やっぱり庵野監督のことが好きだったとおもうんですよ。
ほんとうにここまでよく頑張ってみせてくれたなって私も
燃え尽きてしまいました。なんかすべて掌の上で踊ってるようで
実は製作者サイドが一番苦しいおもいをしてるんだなって
エヴァンゲリオンの過程をみるとわかったようなきがして
大作ってすごいですよね・・・なにもかもうまくいくような甘い
思いなんか絶対しちゃいけないんだなって
読者と作者の共有物なんだって自覚しました