『新九郎、奔る!』(ゆうきまさみ)1巻読了。
ほう、あのゆうきまさみ先生が歴史漫画、それも北条早雲を描くときたもんだ。
戦国大名の先駆け、伊勢新九郎の物語!
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康……かの有名な武将たちが活躍する時代の少し前、戦乱の世のはじまりを生き抜き、切り開いた男がいた―――
その名を伊勢新九郎。
彼はいかにして戦国大名となったのか。彼はそもそも何者だったのか。知られざる伊勢新九郎の生涯を、まったく新しい解釈で描く意欲作!「戦国大名のはしり」とも言われる武将を描く、話題騒然の本格歴史コミック、待望の第1集!!!!!
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『新九郎、奔る!』
北条早雲(伊勢盛時)といえば最初の戦国武将とも呼ばれ小田原の後北条の祖である。自身で一度も名乗ってないのに、息子が関東を治めやすいからと鎌倉幕府の「北条」性を使いだして、北条早雲と呼ばれるようになりました。きっと、本人もあの世で「ファッ!?北条早雲って誰だよ!」と思ってることでしょう。
『新九郎、奔る!』は北条早雲の生涯を描く大河漫画になる(と思われます)。
正体不明の素浪人から戦国大名にのし上がった…という戦国ドリームの通説でなく、室町幕府の役人、今でいうエリート官僚みたいな、低い身分でなく平氏名門の伊勢氏の庶流であるそうな。近年の歴史研究を踏まえた当たらな北条早雲英雄譚かな。詳しくはwikipedia見て下さい(←)。
冒頭は「明応の政変」から
1話冒頭
明応ニ(1493)年、伊豆国北条「鎌倉公方」の御所―
一人の男が歴史の表舞台に踊り出た。
冒頭では北条早雲が足利茶々丸を攻め滅ぼすところからスタート。戦国時代のゴングが鳴りひびたのである。ここで38歳ということは、出生は1432年説でなく1456年説を取ってます。詳しくはwiki(略)。
そこから幼少期に飛んで早雲の生涯を丁寧に描く大河ドラマ使用な模様。
1巻は幼少期から「応仁の乱」直前までを伊勢家の視点で描いております。
ま、1話を読んだ時の正直な感想は学研歴史漫画シリーズかよ!ってものでした。懇切丁寧に教材のように説明してて、「そこまで解説いるの?」って。肯定的に言えば分かりやすいがクドい。読みたいのはドラマであって歴史じゃねーんだよと思ったものの、そこはベテランゆうき先生。徐々にエンジン上げてドラマチックに盛り上げていきます。
壮大な物語になる予感
一昨年の秋頃から準備を始め、大まかな全体構想は作ってから描き始めたのですが……
なんということか! 描き始めてみると分からないことが増えてゆくという恐ろしい世界です(^_^;)下のネームのようなものは、実はネームではなく、昨年の早い時期に作っていたイメージボードのようなもの。 pic.twitter.com/Gpm9ViOhJR
— ゆうき まさみ (@masyuuki) 2018年8月8日
既に全体像を作っていたのか。あくまで個人の意見だけど、自分の中のゆうきまさみ評って、レシピを事前に準備してその通りにパーフェクトに作る料理人みたいな。ガッチリと作り込まれた物語、きっちりと貼った伏線を終盤で回収する。物語の破綻をさせないお手本のような作品を描きます。
で、そんな氏が既に確定事項となってる歴史漫画を描くってんだから興味深いよね。だって、もう既にストーリーは決まってるようなものじゃないですか。だから、事件やイベントで読者を驚かせたり唸らせることはできない。誰でもwikiで調べれば先の話は分かる。
故に、歴史漫画で一番見どころは起こる「事件」そのものではなく、「なぜその事件が起こったのか」という部分ともいえる。そこに至るまでは、作者それぞれの解釈次第で大いに脚色していいし、独自の個性を出しまくっていいのである。
細川勝元と山名宗全の対立
5話「応仁前夜その2」、細川勝元と山名宗全がぐう仲良し
先にネタバラシになるがゆうきまさみ先生による「応仁の乱」勃発理由は1巻では描かれてません。それでも火薬庫は暴発寸前である。確かに細川勝元と山名宗全は完全対立していく。むしろ仲良かったエピソードまで描かれてる。事実として、細川政元の実母は山名宗全の娘(養娘)である。
日の本を二分した「応仁の乱」は、東軍の細川勝元、西軍の山名宗全が覇を競った大戦であるが、その前は家族ぐるみのような仲良しこよしの関係だったエピソードまである。
僕が学生の頃は、8代将軍足利義政は男子が生まれず、弟(義視)が次の将軍となる言質を取ったのに、後から息子・義尚が生まれてしまったが為、細川勝元と山名宗全が2つに割れてしまったと習ったものです。
つまり、将軍の弟(義視)を次の将軍にしようとした細川勝元と、将軍の息子(義尚)を次の将軍にしようとした山名宗全が衝突したと(今どう習うかは知りません)。しかし、近年ではこの説は「だがこの通説には、疑問が残る」(宮下英樹風に)となってます。詳しくはwikiを(略)
実際、義尚の後見人は伊勢家だったそうで、今作『新九郎、奔る!』も主人公・新九郎の視点で伊勢家が御所様の息子を預かっております。将軍の後継者問題で「細川勝元VS山名宗全」を描いてません。応仁の乱の前哨戦である「御霊合戦」に両氏の対立というか亀裂がはじまってる。なかなか面白い。
新たなる「北条早雲」像
北条早雲幼年期
可愛らしいショタっ子くんが北条早雲です…。
戦国時代が好きな者からすると北条早雲というとレジェンドすぎるんですよね。僕らの世代だとノッブの野望シリーズでも登場しないし。後北条の武将なら曾孫の氏直のほうがメジャーというか慣れ親しんでるというか。ドラゴンボールで言えば武天老師どころかさらに師匠の武泰斗さまみたいなものですからね。
前時代の豪傑というか。すごかったんだって印象しかない。実際に、北条早雲が戦った相手も、徳川家康のひいひい爺さんとか武田信玄の祖父とかそういう世代ですしおすし。そんなレジェンドオブレジェンドの北条早雲がかわいらしい少年というギャップも光る。
ドラゴンボールならば、武泰斗さまの生涯を幼年期から描いてるようなものですよ(何で例えがいつもドラゴンボールなんだ)。どう見ても歴史とかの本筋メイン部分ではない…がしかし、興味あるじゃん!面白くなりそうじゃん!『新九郎、奔る!』はそういう意味合いもあります。
例えば、ヤンマガでやってる『センゴク』シリーズで一番古い年代の外伝『桶狭間戦記(AA)』でも、北条早雲ってぐうレジェンド扱いでしたからね。
『センゴク桶狭間戦記』の今川氏親が語る北条早雲
(戦国大名は何かと聞かれ)ワシもかつて外叔父伊勢盛時様、いまでいう北条早雲公に問うたことがある。親族と争い、主家を追い、敵国をなにを獲るものぞと。早雲翁曰く、なにも獲らぬと…。ただ乱世を生くるのみと…。幼少のワシに判りやすくこうも仰った。乱世とは、果てるまで命を燃やす遊び場であると。
『センゴク桶狭間戦記』では、北条早雲が実際に言ったか知らんが、戦国大名とは燃え尽きて果てるまで遊ぶものというテーマで、今川義元VS織田信長の遊びあいを描いたものでした。かの『センゴク』シリーズですら、超伝説の豪傑だったのが北条早雲です。
そんな北条早雲を幼少期から等身大の人として描くってのが『新九郎、奔る!』の刮目ポイントでもあります。1巻の印象だと正義感強い少年ってイメージです。てか、表舞台で出るまで今川氏親の部下じゃんって気もするので、その辺もどう処理するのか気になる。
今川氏親の母、今川義元の祖母
千代丸の姉・伊都
可愛いじゃねーか!
事実として、北条早雲の姉(妹?)は今川義忠の正室である。つまり、今川氏親の実母で今川義元の実祖母です。『新九郎、奔る!』では早雲の姉という設定で描かれてますが、控えめに言ってめがっさペロペロでした。
ここにきて歴史ものとしてだけでなくお姉ちゃん萌えの新境地を切り開く(ような気がした)とは…ゆうきまさみ先生め…やりおるわい。アホっぽいのに弟への慈愛が良い、脳天気だけど賢い味わい深いお姉ちゃんとなっております。源氏と頭中将の薄い本に「むふ~」と満足気だったのが特に素晴らしかったです(結論)。
盛り上がります!
MajiでOninする5秒前
人物描写だけで盛り上げてくれるからね。流石は、おっさんのキャラクターメイキングが上手い事に定評のあるゆうき先生というか。北条早雲…千代丸くんにはどうしようもないが、「応仁の乱」寸前で細川勝元と山名宗全のどっちも良いおっさんっだったのが刮目ポイントなのかなぁ。
父と叔父の仇的な扱いでありつつも、どこか憎めない人物として両者がいる。2人がした千代丸くんとのやり取りは微笑ましいものもあり、「応仁の乱」そのものの楽しみと、主人公に与える影響としても非常に興味深いです。
まとめるとお姉ちゃんペロペロでした。そういえば、伊都お姉ちゃんのフラグが立つという見方もできるのが応仁の乱ですね。サービスサービスってただのパロ以上に期待しちゃうじゃん!?新たなる北条早雲像を描くだけでなく、新たなる姉萌えに挑戦してるのである。まる。
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コメント
随分昔に司馬遼太郎の小説読みましたけどやはり伊勢新九郎のお話は地味だなという印象を受けたのを覚えています。漫画読んでみようかな。
早雲様はイメージと違って脳筋なんですよね
伊豆で戦っていたと思ったら翌月には尾張まで進軍
とにかく戦争戦争・・・没落貴族今川家を立て直した手腕は凄いけど、
残っているのは戦争の記録ばっかり
実は姉がスーパー姉ちゃん?
ちなみに当時の今川家の飛車角兼ジョーカーの絶対的エースが早雲様なら
二番手は伊達なんだけど・・・・出てくるのかなぁ?
ゆうきまさみの歴史物と言えば、ヤマトタケルの漫画が有りました。一応神話よりは歴史寄りだった気がします。
マジで学研まんがみたいだった
面白くなるのか疑問
あ~るの新刊に気を取られて、同時にこれも売場に並んでたはずなのに全く気付かなかった…。
ゆうきまさみ氏はどの資料から早雲の幼名に、「千代」を採用されたかが気になります。私の推定では早雲の長男氏綱、あるいは三代目の氏康の幼名が「伊豆千代」であり、四代目の氏政が「松千代」、それに三代目氏康の五男で、後に藤田家を継ぐ氏邦が「乙千代」とされていたのを参考に、多分初代も「〇○千代」であったはずとの推測であろうと思われる。従って確かな史料の裏付けがなく思い付きで無難な「千代」を採用されたのではないか。私は、「応仁記」・足利義視の「都落記」で伊勢の小倭に落ち延びたとき、正住寺、あるいは山の上にて酒の後、おもむろに義視公「袖に吹け 都の秋の風の伝手」と前句を詠み、侍らす児、宮千代丸に「脇を」(詠め)と促した。児は取り合えず「紅葉や便り君に合いける」と下の句を詠んだ、とある。この名童宮千代こそ後の伊勢新九郎(早雲)その人であろうと考えた。今まで、北条早雲は八拾八歳説で二百数十年間も巷間に流布されてきた。そのためまさか、三四,五歳で伊勢に下ったはずの彼が、幼名の宮千代丸と呼ばれるはずがないとの固定観念にとらわれた結果、この宮千代丸が見過ごされてきたのである。ゆうき氏も従来の幼名の例から、ただの千代丸では無いと気づいていたと思われる。しかし、確証がないため、とりあえず無難な「千代丸」としたのであろう。まさに「画龍点睛を欠く」結果となった。伊勢に隠された早雲公はわずか十一歳で未だ幼名で呼ばれていたのであった。詳細は拙書「改訂版・北条早雲の真実」を読んでください。一風。
前項の補足。先ず、私一風のコメントで、文章の中に瑕疵がありました。数字に「十」とすべきを「拾」とした事です。 次に、「新九郎奔る」を読むと、最近の定説である六十四歳説を採られたのは良しとするが、伊勢に足利義視公と逃れた愛童(刀持)を宮千代とせず、兄の八郎貞興、(後の盛種)とした事、しかも、伊勢一族によって粛清されたことにした。私の調査によると、貞興(彼は新九郎の義兄)、姉の北川殿、弟の弥次郎盛興も法蔵寺の過去帳によれば、天寿を全うしているはずです。
後のストーリ―は未読であり、今のところコメントは不可能です。一風。
拙著、「北条早雲の真実」の中で、一つ誤りが見つかりましたので訂正します。78頁の6行目。[経覚私要鈔]同二十六日「伊勢国司教具卿此間数日長谷寺(近長谷寺)経過云々、(後略)」の近は誤りで遠が正しい。当時、国司は「応仁の乱」に参加を阻止され奈良に足止めされていたらしい。この裏には次期将軍今出川殿(足利義視)伊勢隠棲の計画が義政公にあった?国司に一族の木造氏から小倭に義視一行が到着したとの連絡が入り、急遽馬にて伊勢に向かう。義視公に拝謁して丹生に館をお建てするまで、薬師寺(近長谷寺)裏の別荘にてお暮しいただくようお願いし、急ぎ奈良に引き返す。しかし、その後の道中の護衛と伊勢の平尾港にて接待の祝宴を開くため、再び内密に引き返す。これを見た僧は「何事の用か不審なり」と日記に記す。この記録から当時の僧や茶人は隠密の役目も担っていたことがよく解るのである。一風。
拙著、改訂版「北条早雲の真実」で、誤りが見つかり訂正します。78頁6行目、「経覚私要鈔」同二十六日「伊勢国司教具卿此間数日長谷寺(近長谷寺)経廻云々、」と、したが、その中の(近長谷寺)は間違いで、奈良の(遠長谷寺)が正しい。当時、国司教具卿は将軍の命により、「応仁の乱」に参加せず、奈良の長谷寺で待機していたらしい。そこに今出川殿(足利義視)を伊勢に隠棲させるから「宜しく頼む。」との連絡が入った。彼は急ぎ伊勢に帰り、小倭で義視公と面会し、御所を丹生に建てることを約し飛んで奈良に引き返した。その後も伊勢と奈良を次期将軍接待のため、度々、行き来したのであろう。それを見た僧が「何用があるや?」と不審に思い日記に書いた。義視一行の伊勢落ちは将軍義政公から「このことは内密に取り計らえ」との指令が下っていたため、僧に不審を持たれたのである。当時の僧や茶人は隠密の役目も果たしていたことが読み取れる。一風。
今回、私的に二百部発表した「改訂版・北条早雲の真実」について、その概要を書きます。約十年ほど前に黒田基樹氏が「中世関東武士の研究」第一〇巻『伊勢宗瑞』で、早雲享年64歳説を朝霞市の法蔵寺の戒名から発見され、それをこの本で発表された。これにより、ほぼ64歳没説が定説化しつつある。これに基づき過去の資料を読み直すと、「応仁の乱」で足利義視一行が伊勢に下った時供として、伊勢宗瑞(北条早雲)が居たとされてきたが、長年に亘り明確ではなかった。しかし、今回「応仁記」・「北条五代紀」(生誕年以外)に書かれた内容がほぼ正確であることが足利義視の日記、「都落記」(跡見学園女子大学・紀要醍十三号付・尊経閣文庫蔵・翻刻 和田英道)から判明した。これによると、①、宗瑞の幼名が「宮千代丸」であったこと、②、伊勢の小倭で義視公と歌を交わした彼はわずか十一歳の童であったこと、③、約1年後、義視は帰京したが、彼は伊勢の伊沢(松阪市射和町)の多気(たげ)屋(実は富山家)に養われたこと、④、伊勢で武術と医学を学んだこと、⑤、今川義忠公に嫁いだ北川殿も彼の姉であったこと等を推定可能とすることができる。この本で過去の定説のすべてを見直す必要が出てきたのである。つまり、我々は未だこの世に生まれていない彼の24年間を探し求めて彷徨し、誤解の「屋上屋を重ねる」行為をしてきたのである。一風。
北条早雲事、伊勢新九郎守時入道して伊勢宗瑞がなぜ長年88歳没とされて来たか?これについて、過去いろいろな説が唱えられてきた。しかし、私は最近、この説を流布したのは、実は北条家の系統とされる狭山北条家の子孫ではないかと考えたのである。その理由は系図を伝えた当家の記述にある。*北條系図「北条高時(1303~1333)相模二郎時行(童名・亀寿丸・1327~1353)北條小次郎(生没年不詳・住於尾張国海東郡蟹江・室横江常行女)北條時盛(生没年不詳<初代備中に養子となった盛経、私評>)北條行長(生没年不詳<二代目備中に入部した伊勢盛継、私評>)伊勢盛時<後の盛定、私評>1432~没年不詳・猶子實伊勢備中守<初代行長=実は盛経の事、新九郎の実祖父、私評>男)伊勢新九郎長氏生年不詳~1519・後の早雲」と、ある。この系図で盛時とあるのは、実は新九郎の実父の盛定の初名であった。盛時は世襲名であった為、長兄の貞興に継がれた。従って、この名は盛定-貞興ー新九郎と続いたのである。最初の盛時(盛定)の生年が1432年であり、没年は不詳で新九郎長氏(早雲)の生年が不詳で没年だけは1519年と分かっていた。これを同人と早合点した人が、二人の生年と没年を足して88歳としてしまったと思われる。彼が88歳であることが判っておれば、逆算して生誕年はすぐ判る。この盛時が早雲であれば、猶子とは書かず、實は肥前守、または備前守<盛定と書かれるはずである。したがってこの盛時(実は盛定)を後に早雲と勘違いした可能性が高いと私は視る。一風。