うむ。相変わらずじっくり読み応えのある作品ですね。
1巻ラストの衝撃的展開からの続きを読みたいと思うと多少肩透かしを食らった気分になる人がいるかもしれません。それでも私は十分楽しめましたね。ズバリ、怖さがやばかった。
まあ正直に言えば「あの世」と「この世」の真相を知りたいと思っていましたが、真相を明かさない焦らし作戦も良きかな良きかな。
真相を焦らしてるんだけど、読んでる時には焦らしを感じさせないスピード感でスラスラ読めてしまいます。むしろ村社会を掘り下げる事で、『ランド』という作品のテーマがなんとなく見えてきた気がしましたね。
日本への不安
1巻と2巻のオビが共に「山下和美が抱く日本への不安」と書かれており、どういう意味なんだろうと思ってましたが、2巻の内容でその辺りを把握できたって感じでしょうか。
というかこれ社会の風刺漫画じゃねーのかてぐらい思ってしまう。
(以下、ネタバレ風味)
本当に恐ろしい大衆扇動は、 娯楽(エンタメ)の顔をしてやってくる!
2巻で描かれる村人たちのエピソードが現代日本、いや人類史を風刺してるかってぐらいドキッとする。その通りじゃないかと頷ことも多々あります。けっこうイデオロギーを感じるかもしれませんが、押しつけがましいような説教臭さはなく、あくまでストーリーあっての社会の風刺程度です。
村人の熱い手のひら返しや操られっぷりはおかしいけど笑えない。
ネットじゃ「正義」という名の集団リンチ(炎上)を何度も目の当たりにしてきましたし。恐ろしいんですよ!「大衆は不満や怒りの形ある捌け口を常に求めている」「そして、その怒りの矛先が自分に向くことを恐れている」とは日本に限らず、歴史に限らず、人間の邪悪さそのものだなって。
だから超ムナクソなんですよね。
例えば、悪役ってのは自分が鬼のような事をしてると自覚してるから悪役なのであって。『ランド』の村人達はまるっきり小市民で無自覚。何となく雰囲気で酷い事をしている。こういうのが一番ムナクソ悪くなる。下衆の極み大衆である。と同時に可哀想でもある。
でも、扇動者もマジで怖い。
2巻を読めば、中心的な扇動者が2人いる事に気づく。シカのお面を被ったヤツとイノシシのお面を被ったヤツである。(特に鹿)
この2人やば杉内。大体一緒にいる。
ランド内の序列はNO3~NO5ぐらいでしょうか。
知らんけど。立場的には相当偉いんでしょうがトップではない。しかしながら、上の立場の者も民衆も上手に上手に扇動しちゃってんのよ。手のひらの上ってやつです。流れや世論を作ってんの。人心掌握術が長け過ぎてる。ひえぇぇぇ!
2巻で一番強烈だったのは真理おばさんのモノローグ。
「しんり」とも読めるのがまた意味深である。ひたすら村人の負の側面や邪悪さが浮き彫りになった時の真理おばさんの台詞。
「嫌だね、人間はもう」
ビビったね。そして刺さった。
何が刺さったかって、作者の山下和美先生って少女漫画家時代は知らんが、モーニングに来てからはひたすら人間賛歌の漫画の描いてたからね。『天才柳沢教授の生活』も『不思議な少年』もそう。いいなーいいなー人間っていいなー♪ですよ!
んで、今作『ランド』は人間て嫌だなーですよ!
これじゃ人間挽歌だよ。180度違うんですけど。
村人が無慈悲すぎる。身の毛のよだつぐらい人間の醜い姿を描いているんです。
が、しかし!同時に人間の美しいが上に美しい描写もある。
フキとか高潔だった。人の美しさが詰まっていた。人の醜さだけでなく、その中で、人の美しさも光り輝いているのも活目ポイントではある。救いはあんまねーけど。人の高貴な姿と邪悪な姿を浮き彫りにするね。
人間賛歌を描く山下和美先生が『ランド』では真逆なこと描いてる。果たして、人間挽歌といえる展開になっていくのだろうか。本当に人間は嫌ってやっていくのか。個人的には違うと思ってますがね。今後どう転がすか分からんけど。
まあ、そんな事は脇に置いておいて普通にストーリーが面白いんだよね。鬱々しいSAN値をガリガリ削ってくる中でいて、杏ちゃんの真っ直ぐさは太陽のように輝く。ドラクエ風にいえば、闇に閉ざされたアレフガルドに光を照らしてくれる存在だ。勇者・杏ちゃんである。
杏ちゃん△□?(さんかっけー死角無し)
ひゅー!力強く生きる杏ちゃんは最高だぜ。可愛いし。
『ランド』の人々は生きてる感じがしないんだよね。「死ぬことは何でもない。生きていないことが恐ろしい」(byユゴー)とはよく言ったものである。
杏ちゃんは上を向いて生きてる感がグッとくるね。同時に、下を向いて堂々と生きているアンとの対比も面白い。2巻は201ページがベストかな。2人の立ち位置と生き様的な意味で。「杏」と「アン」ねぇ。なんか「名前」が重要なテーマでもありそう。和音様の台詞が興味深い。
「ねえ知ってる?人間を縛る最初の呪いって何なのか。それは名前」
名前が人間を縛る最初の呪いで、全ての人間は呪われているけど気付いてないだけなんだとか。まあその通りではある。「名前が呪い」というのは結構色んな作品で見かけるけど(真名を知らてはいけない的な)、一番シックリくるのは小説『陰陽師』(夢枕獏)かな。漫画版も超お勧め。「玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること」で、安倍晴明と源博雅による以下のようなやり取りがある。
「たとえばだ。この世で一番短い呪とは何だろうな」
「一番短い呪?」
「おれに考えさせるなよ、晴明。教えてくれ」
「うむ。この世で一番短い呪とは、名だ」
「名?」
晴明がうなずいた。
「おまえの晴明とか、おれの博雅とかの名か」
「そうだ。山とか、海とか、樹とか、草とか、虫とか、そういう名も呪のひとつだな」
「わからぬ」
「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」
「ものの根本的な在様を縛るというのは名だぞ」
「この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何ものでもないということだ。存在しないと言ってもよかろうな」
「むずかしいことを言う」
「たとえば、博雅というおぬしの名だ。おぬしもおれも同じ人だが、おぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる─」
しかしまだ博雅は納得のいかぬ顔をしている。
「おれに名がなければ、おれという人はこの世にいないということになるのか─」
「いや、おまえはいるさ。博雅がいなくなるのだ」
「博雅はおれだ。博雅がいなくなれば、おれもいなくなるのではないのか」
肯定するでも否定するでもなく、晴明は小さく首を振った。
「目に見えぬものがある。その目に見えぬものさえ名という呪で縛ることができる」
名前が人を縛るというのは真理である。
日本は呪社会ですしおすし。例えば、会社で上司のことは「課長」とか「部長」とか呼ぶじゃん。縛られてるじゃん。名前とか肩書で人の言動や考え方を縛っちゃうのである。とはいえ、呪というとネガティブだけど、とても重要でもある。名前を呼ばれなきゃ「その者」として存在しないからね。名前を呼ばれてはじめて、その名前の人物として存在できるし。
んで、「杏」と「アン」とかね。呼名同じ「あん」ですからね。1話で同じ名前にしたってモノローグあったし。捨吉さん的には「アン」は「杏」の中にいるという感じだけど、実際は「アン」が普通に生きていたわけで。じゃあ「杏」ちゃんは…。色んな意味で先が楽しみすぎるぜ!
「おぬしに惚れた女がいたとしてだな、おぬしでも呪によって、その女に、たとえ天の月であろうとくれてやることができる」
「教えてくれ」
「月を指差して、愛しい娘よ、あの月をおまえにあげようと、そう言うだけでいい」
「なに?」
「はい、と娘が答えれば、それで月はその娘のものさ」
「それが呪か」
「呪の一番のもとになるものだ」
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