『恋は雨上がりのように』(眉月じゅん)10巻読了。
これが最終巻なり。こういう結末か…なるほどなぁ…。
橘あきら17歳。高校2年生。
ガーデンで過ごした大晦日から年が明け大雪の元旦。
部屋で一人黙々とペンを走らせる店長。
編み上げたマフラーを下げあきらは傘をさし、家を発つ。
「きっと、すぐやみますよ。」
あの出会いの日から季節はめぐり、二人が雨上がりの空に描くのは―――『恋は雨上がりのように』ついに完結――!
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17歳の女子高生・橘あきらと45歳のファミレス店長・近藤正己の恋物語もこれで完結です。
『恋は雨上がりのように』最終巻
おじまします…
さあ!いきなり最終決戦です!
あきらはずっと店長を好きだとアピールしてたし、店長もあきらが好きだと自覚し、10巻では部屋にあきらを招いて2人きりです。28歳の年の差によるドリームが起きたって不思議じゃないシチュエーションでした。
JKを部屋に…って店長は近藤メンバーと呼ばれか天下分け目の関ヶ原でもあった。好き合う男女が部屋で2人きりですからね。間違いは起こってしかるべきでしょう。
いや間違ってすらない。何も間違っちゃいない。ただいけないことをするかどうかですね。やっぱマトンよりも若くて柔らかいラム肉のほうが美味しいって言うしね。
28歳も離れた小娘と禁断の恋を繰り広げてしまうかもしれない…。ひょっとしたら、僕らは店長に夢を見てたのかもしれんな。
で、結論を言います!
(以下、ネタバレ注意です)
この顛末は…!?
雨やどりしてただけだよ。もう大丈夫。
ええぇぇぇぇぇ!?
店長、葛藤の末に近藤メンバーになりませんでした。
手を出さなかったのだ。
この結末をどう受け止めるかは読者によって意見が異なるでしょうけど、自分は「ラム肉食っちゃえよ!」と思ったものです。ここまで来てこういう結果ですか。
店長への恋含めて雨宿り「雨」だった
『恋は雨あがりのように』ってタイトルだったので、怪我をしたあきらが「雨」模様であり、店長に恋したことが「雨上がり」を指して晴れだと思ってたのに!
まさか店長への恋したことを含めて「雨宿り」で、陸上に復帰することが「雨上がり」だったなんて…。
「恋(すること)は雨あがりのように」ではなく「恋(したこと)は雨あがりのように」だったのである。
日傘のプレゼント
日傘
店長のプレゼントが日傘だったのも比喩が効いてた。
わざわざ「橘さんに似合うと思って。」と言って日傘を渡してました。
店長に恋した事を含めて「雨宿り」の雨模様だったならば、あきらには「雨」ではなく「晴れ」が似合うという意味合いなのでしょう。恋を吹っ切れというメッセージのように受け取れる。
「彼女は恋をしていた。」と過去形のナレーションでキッパリと。もう雨は上がって晴れになったって。それが似合ってるという感じのラストでした。
しかも店長が日傘を買ってたのはあきらを部屋に上げる前ですからね。とっくに近藤メンバーにはならないと決めてたようにも見える。がしかし!それにしては未練があって、ラム肉を食うか食わないかで色々と葛藤してる描写が多い。
日傘を送るべきか送らないべきか
日傘のプレゼントについて
もしもあきらと同じ年だったら…という「if」のモノローグ(夢?)からして、あきらが店長と一緒に過ごすのは雨の時だけ。「雨がやんでしまったら…」と、もっと雨が続けばいいのにって考える高校生の近藤はそのまま中年店長にも当てはまってるよね。
今度、渡せばいいプレゼント。
今度、渡したいプレゼント。
晴れにさす日傘をまだ渡したくない。
イコールで、あきらには晴れが似合うって分かってるけど雨宿りを店長も楽しんでたのがなかなかどうして。今度「渡せば」「渡したい」と雨がもうちょっとだけ長く続けばいいと思うような中年の倫理の鎖に縛られた「いけないこと」に対する葛藤よ。
まあ、店長は近藤メンバーと呼ばれるギリギリのところで揺れて、結局自ら「雨宿り」を終わらせちゃったんですがね。これは「勇気」としてジャッジするとどうなんでしょうか!
「羅生門」として見ると
羅生門的に…
下人の勇気が今後彼の人生のプラスに働けばいいなぁと思います。
コミック4巻のレビューでも書いたけど、店長は「羅生門」の下人にかぶせてましたからね。ニキビを離して盗人になる下人とは、女子高生あきらに手を出す近藤下人になるって思ってたのに!
ここで「文学を捨てる勇気」と一応のアンサーを出してはいた。店長の中に埋もれていた文学はあきらと出会って蘇ったしね。これは確かに「勇気」だけど、僕らが見たかった「いけないこと」をする「勇気」ではなかった。店長は下人になれなかったのである(個人の意見です)。
『羅生門』は凡人の下人が泥棒になる「勇気」もなかったくせに盗人になる決心した話。つまり、世間的に「悪」の勇気を持つものでしたが、店長には「近藤メンバー」になる「勇気」が出なかった。なんかすごい誤魔化しのようにも見えたし、これで良かったと納得する自分もいた。
少なくとも近藤店長の「文学を捨てなかった」勇気が今後彼の人生のプラスに働けばいいなぁ的なものだった。同時に、下人は店長だけでなくあきらにも当てはまってた(ような気がする)。
あきらの雨宿り
「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」という羅生門の下人にピッタリなのはあきらである。作中では店長が下人っぽく描かれたけど、あきらだって下人なんだよなぁ。
つまり、『恋は雨上がりのように』は店長とあきらの2人の下人の物語だったとも総括できる(ような気がする)。「下人の勇気(店長に恋した)が今後彼の人生のプラスに働けばいいなぁと思います。」は、そのまんまあきらですしおすし。
店長が雨を防ぐ傘でもある
それでも解釈は多様。
ケガをしたあきらが「雨」、店長に恋することも「雨宿り」で天気は雨だったとして陸上に復帰したのが「晴れ」なのは間違いないでしょう。あきらに似合うのは晴れの「日傘」って店長のプレゼントも良い例えです。
コミック1巻が傘をさすあきら(雨)で、最終巻(10巻)が傘をさしてなく雨が上がった(晴れ)という表紙もわかる。もう雨が上がったのです。
しかし、それでもアニメ版の羅生門の回答風に言えば「続きが読みたいとも思いました」ですよ。
日傘
雨が降って雨宿りした、店長への恋は雨。陸上に復帰したあきらは晴れ。ここまではいい。店長が晴れにさす日傘を送ったのもメタファー効いてた。この恋までが雨で雨宿りだったと。
しかし!しかしである!
晴れでも日傘をさす。晴れだろうと傘をさしたのは意味深すぎるよね。雨を防ぐには傘が必要で、ケガをしたあきらには雨を防ぐ役割の傘は店長だったのかもしれない。店長が「傘」だとすれば、晴れても「傘(店長)」が必要って風に受け取れなくもない。
雨が上がったけど…
例えとして、店長が雨を防ぐ傘ならば、雨は上がっても…傘がいると見えるんだよなぁ。
率直にこの2人の続きが読みたいと思いました。
陸上復帰は雨が上がって「晴れ」
故に「つまずいたらどうするかって?」「立ち上がればいいのさ!」によろしく、「雨が降ればどうするかって?」「傘をさせばいいのさ!」からの「晴れたらどうするかって?」「傘をさせばいいのさ!」と受け取ることもできる。
読者の解釈次第ですかねぇ。
怪我して雨が降ったので雨宿りしたあきら。店長への恋を含めて雨から晴天になり陸上へ復帰した。それでも、雨の時と同じように傘をさしていました。この傘は多様な解釈があるなって。
雨が降れば傘が必要である。
されど、雨が上がって晴天でも傘をさしていた。まる。
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コメント
なんかモヤっとしそうな漫画ですね
この漫画の店長は風貌もそうですがパトレイバーの後藤隊長をオマージュにしてたのかなーと思ってました。
この記事がものすごく不快。
どの漫画の記事もそうだったけど変態目線でしか書けないのかこいつ。
どの漫画の記事もそうって、そんな不快なのにそれだけ読み続けるって、実はすごいファンなんですね。
普通は「キモッ」とか思ったらすぐ閉じて二度と来ないのに。
この漫画自体、純文学の皮を変態私小説みたいなもんだし。
何かにかける情熱を見失って傷の舐め合いに似た雨宿りしてたのは店長も一緒なんだよな
近藤メンバーw
店長の元奥さんとか前巻であきらに殴られた人とか全く語られなくて
何の為に登場させたの?って感じだった
恋は雨上がりのように終わった。
ってタイトルかなぁと読んだあとには思いました。
私の中でこのコメントがすごくストンと胸に落ちました。
ありがとうございます
あきらがそんなに陸上に執着しているようには描かれてなかったので、肩透かしを食らったような終わり方だった。
ローマの休日ですね。
最終巻の車のシーンとか特に